正源司剛さんが農業に興味を持つようになったのは、各地を旅する中で目の当たりにした地方の現実がきっかけだった。過疎化により耕作放棄地が広がり、地域が静かに衰退していく様子に「自分にも何かできることはないか」という思いが次第に大きくなっていったという。そして2021年、ニューホライズン(NH)の立ち上げを好機として独立、自ら農の世界に飛び込むことを決意する。
それから5年を経た現在。氏は島根県安来市でイチゴ栽培ファーム「ひだまり農園」を営む。就農の過酷な現場で苦闘しながらも、商用生産は不可能だといわれた「低カリウムイチゴ」の開発に成功した。その熱き記録を、このたび取材させてもらうことができた。
ラ・フレーズ・イズモ(La fraise d'Izumo)
気象予報士、いちごクリエイター、音楽編集者
正源司剛
正源司剛さんのプロフィール:
2022年に認定新規就農者となり、本格的に苺の生産・販売を開始しました。共同出荷、直売、観光農園の傍ら産学連携で新しい苺の開発に取り組んでいます。また、持続可能なアグリビジネスを目指して農業資材の研究開発を全国のメーカーと共同で行っています。
0から1を作りたい
もともと電通在籍時はメディア部門で働いていた正源司さん。
「自分のキャリア後半は“0から1を生みだすような何かクリエイティブな仕事”をやりたかったんですよね」
と少し照れ臭そうに振り返る。セカンドキャリア開拓を支援するNHが立ち上がるという話を耳にした時、その思いが再びふつふつと湧き上がったという。
「生産者の高齢化と離農が急速に進む日本はこの先大丈夫なのか…そうした問題意識は会社員時代からずっと持ち続けていたんです。しかも農業は何もないところから美味しい作物を生み出す、まさにクリエイティブの最たるものですしね」
かねてよりの夢と、地方再生というもう一つの志。この二つが重なったとき、就農という明確なビジョンが目の前に拓けた。家族も賛成し、手伝ってくれるという。
早々に探し始めたいくつかの就農先の中で、島根県安来市が候補に挙がった。最初は葉物野菜を栽培するつもりでいたのだが、
「たまたま同じく脱サラしてイチゴ農家を始めた方がいて応援してくれて。一緒にやりましょうよ、と声をかけてくれたんです。本当に心強かったですね」
イチゴと向き合うきっかけとなったのはそんな偶然の出会いだったとも話す。
そして意を決して独立したその年、早速安来に移住。農業未経験の中での挑戦が始まった。
泣きたいくらいに忙しい
就農して以来、正源司さんが最も痛感しているのはその労働の過酷さだ。
「とにかく忙しい時は泣きたくなるほどです。最繁忙期は朝5時台に起き6時半収穫スタート。その後パック詰めしてお昼は30分ほど。夕方までぶっ通しで詰め作業を続け、17時半までには農協へ出荷します。出荷が無い日や空き時間には無駄な芽を摘んだりする栽培管理を行います・・・これらがすべて地道な手作業なんですよ。年間で換算すると優に3000時間労働は越えていると思います」
サラリーマン時代とは全く違う作業環境に戸惑いを隠さない。
「本当に大変でしたがそれでも何とか最初の3年で、実際にイチゴを作り、パッケージにして販売する。ここまではできたんですよね」
試行錯誤を繰り返し、周囲の支援を受けながらたどり着いた年月をしみじみと語ってくれた。
ただいっぽう、漠然とした行き詰まりを感じ始めたのもこのころだったという。
「このままだと漫然と生産を続けるだけになってしまう…」
低カリウムイチゴの発想はそんな中で芽吹いていった。
低カリウムイチゴを作りたい
きっかけはNHの「農サークル※」の活動で、正源司さんがふと漏らしたひと言だった。
「何か新しいことに挑戦したいんですよね・・・」
なんともぼんやりとした問いかけだったが、氏が当時胸にくすぶらせていた正直な思いだったのだろう。
「NHのメンバーにアイデアを求めたんです。するとある人が安来市のすぐ近くの大学で作物の低カリウム化について研究をしている先生がいるよって、教えてくれたんです。調べてみるとその教授はすでにメロンにおいては低カリウムを実現されている。ただイチゴについてはその特性から商用生産は非現実的、という見解を示されていたんです」
ただ逆にこれが正源司さんにとってのチャンスとなった。すでに会得していた栽培の知識から、イチゴ生育のある“タイミング”に賭けたたらどうか、と思いついたのだ。
「通常カリウムは作物の成長には欠かせない栄養素で、与え続けなくてはならない。特に複雑な生育を繰り返すイチゴはそうなんです。ただその収穫期の最後を狙って、カリウムを与えるのをやめれば、低カリウムを商用生産できるのではないか。そんな風にメンバーと話し合ったのです」
正源司さんはそのアイデアを携えてすぐに教授に連絡を取った。
「いきなり、“すみません安来市でイチゴ栽培に就農したばっかりの者なんですけど、低カリウムイチゴを作りたくて”・・・って電話したんですよ(笑)」
正源司さんの行動力もさるものだが、教授も真摯に向き合ってくれた。はじめは生産の難しさを改めて指摘していた教授だったが、
「考えていた方法を伝えると、それは面白いねっておっしゃってくれたのです」
思わぬ反応を示してくれたという。
意を強くした正源司さんたちの実験が始まった。だが実際にその方法で栽培を始めてみても最初は全くイチゴに変化がなかったという。
「カリウムを断っても値が減らないんです。イチゴがどこからカリウムを得ているのか本当に不思議でした。いちごの株は元気がなくなり、このまま実験は失敗かと不安になり始めたころ…ある日を境にそれが急落したんです」
その瞬間、仲間たちは歓声を上げた。
「いや興奮しましたね。自分たちの測定だけだと不安だったので、その後すぐ保健所に持って行って検査をしてもらいました。ですが結果に間違いはありませんでした」
カリウム値は通常いちごの半分以下を示したという。
カリウムの摂取制限をされる腎疾患を持つ人たちにとって、まさに奇跡の果実が生まれた瞬間だった。これをもって正源司さんは仲間と共に特許出願を終え、今は医療機関へのアプローチを開始しているという。
「なにより必要としてくださる人が、確実にいるはずなんです。それが実現できたのは嬉しかったですね」
※農サークル:NHにあるサークル活動の一つ。農業に関する様々な情報や楽しみを交換する場となっている。

ナイトベリーをやってみたい
ひだまり農園が近隣の生産者と最近始めたチャレンジがもう一つある。夜に行ういちご狩り「ナイトベリー企画」である。今現地では若者を中心に大盛況だそうだ。
「これがですね、絵としても映えるんですよ」
と笑う。写真を見せてもらうと、ビニールハウス内がシックな黒基調の備品でレイアウトされており、これまでのいちご狩りのイメージを一新する空間だ。
「お客様用に多めにイチゴを用意したり、残った分を翌日どうするかなどの課題はありますけどね。今地方では若者の娯楽が少なくて、人口がどんどん都市に流れていってしまうんです。こういったイベントを企画することが、その抑制になってくれればこれも地域貢献になるだろうと」
しかもイチゴは程よく熟したタイミングで提供できるので、美味しさもここならではのものになっているそうだ。現在は5月のみの営業だが来期は本格的に展開し、訪れる人の期待に応えようとしているとのこと。
ナイトベリーを手始めとして今後農業を、若者たちにとっても魅力ある仕事にしていきたい。そう考える正源司さんは、
「やはり過酷な労働環境の改善は急務ですね。人を雇えばいいのですけど、それだと人件費が大きな負担になる。あとは高額な初期費用に見合わない不安定な収入を改善しないといけない。やはり今後は農業にこそAIやロボットの導入が必要になります。いま専門知識のある人を巻き込みながら、使命感を持って今後のあり方を考えているところです」
日本の未来を考えたい
0から1を作り、地域に貢献したい、農業を魅力的なものにしたいーーーその言葉通りに正源司さんは動き続ける。
「農業を始めたいと思いたった理由の一つに日本の食糧自給問題や、それから派生する安全保障の問題が頭にありました。これはまだできていないことなのですが、今後は販路を海外にも広げたいんです。食料自給どころか、たくさん作って輸出をしたい。外貨を稼ぐことでこそ総合的に地域の活性化も図れると考えているんです」
と視線を遠くに据える。
「それと食品ロスの解消も。イチゴの栽培を続けていると味は熟して最高においしいのに、見た目が悪いってだけでどうしても廃棄せざるを得ないものが出てきてしまいます。こういったこともなるべくなくしていきたいと」
低カリウムイチゴの開発、ナイトベリーという新たな体験の創出、AI導入による農業の刷新、食品ロス問題の解消、そして地方から世界を見据えた販路の構想・・・これらは単なる作物の生産者という枠を超え、今後の日本のあり方を模索するビジョナリストの試みだ。
正源司さんの農園がこれからこの国で、いったいどのような実を結ばせていくのか。私たちは期待とともに見つめていきたい。 (了)